この話あとがき読まないとなんのこっちゃってなる気がする。
Ⅱ 『幸福』
雷鼓は見た目は大人であるが、生まれてからまだ間もない付喪神。知識はその辺の子供と大差なく、言葉こそ不自由なく(道具のときから人の声は聞こえる場所にあったそうで、何となく聞いていたら覚えたとのこと)喋れるものの、一切文字が書けないのである。
そこで衣玖は時折暇を見つけては、雷鼓に文字を教えるようになった。何かを覚えるのは得意ではないらしく、教え始めて一ヶ月はたとうというのに、未だに平仮名で手こずっていた。
「えーと…これが、う?」
「違います、い、です。」
何度間違えても、叱ることなく丁寧に付き添って教える。がんばって覚えようとする姿勢は見ていてよく分かった。
最近ではこれでも間違えることは少なくなってきた。何となくは書けるようになってきたし、そろそろ次のステップに行ってもいいかもしれない。そう思うと、衣玖は雷鼓に少し待つように言い、引き出しから一冊の本を取り出してきた。それは真っ新で、白紙のページがずっと続いていた。
「雷鼓にはこれから、一日一文の日記を書いてもらいます。」
勿論漢字はまだ全然教えていないので、平仮名だけの、短いもので構いません、と付け加える。雷鼓はそれを聞きながら、これから日記となるそれをペラペラとめくっていた。
つるつるとした表面を少し撫でる。何の変哲もない、ただの紙だ。
しかし、その紙が何となく特別なもののように感じるのだった。
「分かった!一日一文だな!」
「それ以上書いてもいいですよ。書くのもいつでもいいです。けれど、絶対一日も欠かさず書いてください。」
分かった、と明るい返事をする。本当に分かっているのかどうか怪しかったが、特に何も言わずに雷鼓にそれを任せた。
約束通り、雷鼓は毎日日記を書いた。
その姿を、衣玖は毎日見ていた。
始めはとても時間がかかっていたのに、気が付けば普通の人が書くようにスラスラと、そして最終的にはほとんど何も悩まずにささっと書いて終わるのだった。
その顔は、とても満足そうなものだった。
「雷鼓、日記を見せてくれませんか?」
一ヶ月ほど経ち、どんなことを書いているのか気になった衣玖は、雷鼓にそう頼んだ。少しだけ悩んだが、衣玖が言うんだったらと言って、駆け足でその日記を持ってくる。
日記を受け取ると、ぺらぺらと中身を見ていく。3日ほど読んだあたりから、衣玖の顔は急に苦虫を噛み潰したような顔になった。
「雷鼓、あのですね…」
歯切れが悪い。雷鼓はその理由が分からなかった。
彼女が書いた日記にはこう書かれていた。
ーきょうもみんなえがおだったー
それが、毎日同じ一文続いていた。主旨を全く理解してもらえてなかったことと、あまりにも予想外の内容に何も言えなくなる。
「どうしたんだ?」
顔をのぞき込んで、じっと瞳を見て尋ねる。
「…何で毎日同じ文章なのです?」
それも、とても当たり前のことをと、少し責めるような口調になっていた。やはり雷鼓はきょとんとしていた。
「だって、皆笑顔だった。わたし何も間違ったこと書いてないぞ?」
「いや、そうではなくてですね…」
呆れて何も言えない衣玖。それが分からない雷鼓。やれやれと、ため息を一つついた。
誰から見ても、それは当たり前のこと。自分たちは仲のいい者同士が集まっているのだ。喧嘩らしい喧嘩など滅多に起きない。
「だって、凄いことだぞ!皆仲良しなんだ!人里に出ても、妖怪に会っても、皆が皆、仲良くしゃべってたり遊んだりしてるんだ!」
その笑顔はとても明るく、道に咲いている蒲公英(たんぽぽ)のように鮮やかな色だった。しかし衣玖にはやはりそれがどういうことか分からない。
「衣玖は、それが普通だと思うのか?」
「え、えーと…」
思わず言葉が途切れる。いつもなら、それはそうだと返すことだ。だが、雷鼓の瞳はそれを許さなかった。
当たり前に思うそれは、本当は当たり前ではないのではないか。衣玖は俯き、返す言葉を考えた。
「町に出ても、どこに行っても誰かが居て、それを必要としている人が居て、それで皆笑うんだ!水の泡みたいなんじゃなくって、しゃぼん玉みたいなキラキラしたものなんだ!」
「…そうですね。」
勿論、衣玖にはその意味が分からなかった。
それは、自分には崇高すぎる幸福理論のように思えた。証明も、導入も滅茶苦茶なはずなのに、いや、そうであるからこそ、逆に誰にも踏み込めない、荒らされないような領域がある。
そう、思った。
とても私には理解できない世界。しかしその世界は、雷鼓にはしっかりある。
そのまま日記は、彼女に返した。
それ以上、何も言わなかった。
そして彼女は今でも、毎日同じ内容を、今も、これからもずっと書くのであった。
雷鼓さん理論。皆笑顔イズすげぇえええ!