ー1って、前入れるの忘れてましたねてっへぇ!!
「っ…どうしたっていうんだよ…!」
氷の湖。そこでは、いつぞやの異変のときのように、紅い光を帯びた霧がかかっていた。そこまで濃度は高くないし、月の光を浴びているだけなので、それ自体は普通の霧と何も変わらなかった。
だが、明らかに異様なものが一つ。
「…どうしたっていうんだ?嫌ですね…こんな素敵な満月ですよ?どうにもならない方がおかしいでしょう?」
右手には緋色の衣が巻かれ、大きなドリルを形成していた。数センチしか変わらない身長なのに、遙かに大きく見えるような錯覚に襲われる。見下されている、そんな感じだった。
先ほど、いきなり龍魚ドリルで突かれそうになった。それがどういったつもりによる行動かは分からない。が、確実に、彼女は襲ってきたのだ。
…いや、おかしいのは衣玖だけじゃない。
「…く、」
力が入らない。何とか悟られないように立っているが、いつ倒れてもおかしくない状況だった。
力が何者かに奪われていく。いつ事切れるかは分からない。切れてしまえば…
その先は、本能が考えるなと囁いた。
「衣玖、待って!わたしが分からないのか!?」
「分かりますよ。雷鼓、私の道具です。分からないはずないでしょう?」
そう言い返す衣玖の目は、明らかに酔っていた。それでいて冷たく、心臓を凍らされそうなほどだった。
「だったら…何でわたしを襲う!?」
「我慢できないのですよ…貴方も聞こえるでしょう?今宵は宴、紅の月の…」
耳を澄ますと、衣玖のようになっている者が多数いることが分かった。
咆咾、咀嚼、殺傷、喧噪。あちこちからそのような音がいくつも聞こえた。荒々しい獣や妖怪の、狂ったかのような。
「ねぇ、相手になってくださいよ。戦いたくて戦いたくて、仕方がないのです…貴方は私の言うこと、何でも聞いてくださるでしょう?では、このお願いも聞いてくださいよ。」
「…嫌だ、わたしは衣玖を傷つけることなんかできない!」
主の頼みならば。いつもそう考えて、逆らうことなんてしなかった。そもそも、命令らしい命令など彼女からされることは滅多になかった。
頼みごとと言いつつ、命令だということは分かる。初めての命令無視。眉間にしわを寄せて、龍魚ドリルを構えた。
「戦いなさい。貴方は私よりも強い…それが、この月の下…果たしてどのくらい強くなられているのか…ああもう、待てません。待つことなんて、」
デキナイ。
その一言と共に、龍魚ドリルが前に突き出される。それをとっさに避わすと、すぐに第2手がやってきた。
「雷符『エレキテルの竜宮』!」
衣玖を中心とし、無数の雷が周囲に落ちる。辛うじて回避できたものの、やはり行動が鈍くなっている。
「くそっ…一鼓『暴れ宮太鼓』!」
不本意ながらも、牽制のための一撃。だがそれを何とも思わず、右手のそれですべて薙ぎ払ってしまう。
いつもなら、1つすら受け止めることができなかったのに。衣玖が強くなり、自分は弱る。この絶望的な状況に、ただ焦ることしかできなかった。
「どうしました?貴方、実力はそれほどだというのです?」
「…本気、出せるわけないだろ…!わたしにとって衣玖は大切な人なんだ!そんなの、できるわけない…!」
本能的にいやがっているのか、それともこの月のせいなのかは分からない。力が入らないのは事実だし、衣玖と戦いたくないのも事実だ。
だからこれは嘘でも何でもない。睨みつけるが、それをものともしないような冷たい目で返す。
「ダメですね…主人の言うことを聞かない子には、」
タンッ、と地面を蹴る音、
「お仕置きが必要です!」
大きく、たたきつけるような動作。大きな動作だけに避けやすい…が、異様なまでに素早い。とても衣玖とは思えない動きだった。
「…なん…で…!」
いつも通りだと構えているとどうなるか分からない。分かりたくもない。
「…何で!何で戦う必要があるんだ!この月のせいだからか!?皆が騒ぐからか!?おかしいよ…こんなの、こんなの…!」
狂ったような、酷い奏楽。雷鼓からすれば、耳を塞いですべてを壊したくなるような、そんな酷いものだった。
「だから言っているでしょう。私が戦いたいから戦う。それだけだと。」
しかし衣玖にとってはそれが甘美に聞こえるのだろう。最早衣玖と呼んでもいいのか分からないが、確実に彼女は、
「…狂ってる…!」
風が強く吹く。霧が少し風に吹かれてどこかへ去った。
紅の霧。風もまた、紅。
風が弱まると同時に、衣玖は再び間合いを詰める。
「はああああああ!」
「ぐっーー!!」
その一突きを辛うじて受け止め、そのまま横へ受け流す。今回はできたが、多分できてもう一度だけだ。
「…わたしは戦わない!『ブルーレディーショー』!」
姿を隠し、軽快なリズムと共に弾幕を発生させる。リズムに乗せた弾幕は助々に衣玖を襲うが、今の彼女なら何ともないだろう。
それよりも、なるべくこのままやり過ごして、無駄な争いを避けたい。
「本当、頭の悪いーー」
一つため息をこぼし、弾幕に目もくれずにスペルカードを天に掲げ、
刹那、無数の雷が空から降り注ぐ。圧倒的な数、それよりも、
「ぅ、ああああああ!」
当たらないようになっていたはずの雷鼓に、容赦なく雷が命中する。無防備な体勢だったために、モロに受けてしまった。
更にいつも以上に威力が強い。自分が弱っていることもあり、その一撃だけで地面に膝をつく。何とか意識は手放ずに済んだ。
「…紅の宴ですよ?逃げる姿勢も、その青も、全て浮いています。それにどうやら、ここまでやっても本気になってくださいませんし…」
ドリルを突きつけられる。胸元のやや左の部分ーー心臓の位置だ。
「死んでください。」
「ーー!!」
そのまま射抜かれて終わり…いや、自分は付喪神だ。人間の体を突かれただけでは、まだ生きている。
ただ流石に、こうも力が無いと無理かもしれないし、太鼓が壊されればそれこそ本当に
「ーーやっぱりね。」
終わる、そう考えようとして、一つ人影が増えていることに気がついた。
衣玖も彼女の姿を見つけると、すっとその武器を降ろす。微笑んで、彼女に尋ねた。
「…おや、穣子ではないですか。どうしたのです?貴方もこの月の宴の参加者なのですか?」
「月の宴、ねぇ…あながち間違っちゃいないかな。」
じっと空を見る。狂おしいほどに紅い、その月を。
雷鼓に豊符『穀物神の約束』で自分の霊力をわけ与え、その傷を塞ぐ。弾幕で使用する以外にも用途があるスペルカードを彼女はいくつか持っていた。それは、そのうちの一つだ。
霊力を分け与えるはずなのに、種族を選ばないという不可解なところがある。それは穣子自身よく分かっていない。
「…巻き込まれないとこまで逃げて。君は、この月の下では力を十分に発揮できない。だから、逃げてて。」
「……」
分かった、と小さな声で返答する。彼女を救いたいという気持ちは強いだろうが、何もできないことは先ほどの一撃で嫌でも分かってしまったのだろう。
不安そうな彼女を後目に、二人に言った。
「衣玖さんが…いや、妖怪がこんなにも騒いでるのは、今日が『妖の紅し夜』だからなんだ。」
それが、どういう日かを簡単に説明する。雷鼓はそれを聞くと、先ほどの衣玖の行動に納得ができたのか、少しだけ安心したような表情を見せた。
「そういうことでしたか…どこもかしこ、血まみれで紅だらけだと思いましたら…」
それならば、やることは一つだ。その説明を受けても、衣玖は羽衣を手放さない。
「穣子。月が綺麗ですね。」
「そうだね…あたしからしたらちょっと悪趣味だけどね。」
「遠慮することはありませんよ。さあ、」
ー殺し合いましょう?
無邪気に、狂ったような笑顔を見せる。いつもの衣玖からはとても想像できない、そんな表情だった。
穣子はそれに対し、にやりと笑って、
「残念だけど、あたしは宴の参加者じゃない。」
スペルカードを、構えた。
「…反逆者だ!」
「…!」
数発弾幕を放つ。威嚇攻撃…いや、挑発によるものだった。
臨戦態勢。それを確認すると、にやりと笑った。
「…いいですね…では、楽しませていただきましょうか!」
避けるために後方に飛んだ衣玖が、一気に前に飛ぶ。振るわれる剣のようなドリルを避け、叫んだ。
「『ロストウィンドロウ』!」
スペルカードではないスペルカードの利用。その宣言と共に、強い痛みを覚えた。
手のひらを地面につける。その刹那、大地から一本の木が伸びたかと思うと、一本の杖のように変形した。
それを手でしっかりと握る。その光景を、ずっと衣玖は攻撃せずに見ていた。
「おや、そんなことができたのです?」
「まあ、ね…残念ながら…いや、君にとっては嬉しいことだね。」
くるくると手の上で踊らせ、構える。
「…反逆者だって言っておきながら。あたしも、月の余興に付き合わされてるみたいだ。」
この杖の召喚には膨大な力が必要となる。が、それは3つの力のどれでもいい。それならば、今一番飽和している妖力で作ってやれば、反動をほぼゼロにできる。
静葉の言葉は、このためだったのだろう。
「素晴らしい。ではーー」
ドリルが鋭くなる。まるで剣のようだ。
穣子のものは杖といいながらも、頑丈さの点ではあの天狗が持っているような刀よりも堅い。殺傷能力は無くとも、牽制程度なら十分に近接の攻撃にも使える。
「踊りましょう!」
「紅し夜が終わるまで、ね!」
そう、終わるまででいい。夜明けさえやってくれば、この忌々しい夜は終わる。
その間持ちこたえればいい。傷つけない、それはできればそうしたいところだが、自分の技量ではとても不可能だ。
本気でいかなければ、殺される。
「はああああああっ!」
剣をひらりとかわし、その杖を振るう。大地から数本の植物の蔦が串のようになり、一気に地上へと伸び上がる。
それを後方にジャンプして回避する。それを薙ぎ払い、己の剣が振るいやすい環境に作り替える。
その間も穣子の攻撃の手は休まらない。地面がやや盛り上がるのを感知し、ひらりと避ける。スカートの裾にひっかかったが、少し破れただけだった。
下がった分、また前方に横に反復しながら距離を詰める。
「『龍神の怒り』!」
回転音。突き出されたその先端に、杖の中心部分でなんとか受け止める。折れる気配はないものの、その威力に体が自然と後ろへ下がった。
「…おっかしーね、あたし。止めるだけのつもりだったのに、真っ向勝負を挑んじゃってるよ。」
「いいではありませんか。…一度、貴方とは本気で手合わせを願いたかったのです!」
本気と本気のぶつかり合い。互いに戦うことを好まないはずなのに、今は互いの血を求め、ただ争い合う。
月の、殺戮の宴。酒は力。肉は目の前の妖怪。それは、自身から奪いに行くもの。
何を我慢する必要がある?何を躊躇う必要がある?
宴は、始まったばかりだ。
4までですね。